理学療法士だったヒーラーの日記 私のAtoZ

理学療法士だった頃の記事を残しています

障害を扱う人間としての思想 差別と偏見の痛みからの学び

世界観note、カイロプラクティックnoteと書いていきましたが、

今回は読書レビューなので久しぶりのブログを更新したいと思います。

記録をする時はEvernoteなのですが、

今回のは記録をせずに、

自分が読んだ軌跡としてこの記事を書こうかと思います。

 今回読んだ本は

『偏見や差別はなぜ起こる?』です。

 

偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

偏見や差別はなぜ起こる?: 心理メカニズムの解明と現象の分析

 

 

僕自身が経験したのはいじめ、無視、距離を取られるなどの差別

発言や態度からアスペルガーっぽい、理学療法士だから~という偏見など

どちらも経験しています。

誰しも偏見や差別をされる時と場所はあるかもしれませんが、

僕の生きてきた世界ではそれが我慢できない、二度と経験したくない、

世の中に起きるべきでないどいう考えが強く生まれるきっかけでした。

しかし今回の記事ではこの本を読んで印象に残ったのが障害の部分で、

これは何かアウトプットをして自分を振り返りたいなと思ったので、

形式としては偏見や差別を経験した人間の障害とそれを扱う理学療法士としての思想を述べていこうと思います。

障害は評価の一つでありレッテルにすぎない

この言葉自体きついものだから害をがいと書いて、

障がいとかく人もいるが、そもそも

害の本質を見抜きそれを克服や改善ができない限り苦しむ人や苦しめる人が今後も生まれるから漢字にするかひらがなにするかは個人的には2の次にしている。

これは私自身障害者障害者と馬鹿にされ続け、言葉を変えてガイジと言われ、

結局その苦しさを変えるには評価や捉え方を変えない限り、

その見方が被害者を苦しめ表現や表出を変えようと被害者はその本質を見抜くから正直してほしくないというのが本音だ。

 

さて、障害とは理学療法士もよくこれはディスアビリティだねなど

能力の否定、できないことがあるという名目で使われています。

個人的にはこの見方が自分が能力があると勘違いして、能力がない人間が悪いという差別や偏見を引き起こしていると医療現場では強く思いました。

そもそもこれの問題はできないことが異常や問題と定義しているが、

全ての人間に個体差や個人差があるように、

ただ自分と違うからとか、標準から外れているだけだからとディスアビリティと定義し、自分や普通に無理やり持っていく形が私自身の経験として苦しめられました。

実際に手話ができない聴者が正常で耳が聞こえないが手話が使える人間が障害者で両方できる人間は凄い人と括り付ける概念はどうなのと思います。

できるという能力なんてそれぞれの状況や環境、評価者によって変わるものだと改めて振り返ることになりました

 

自己責任と差別について

著書ではこれについては『統制可能性(本人の意志によって行動を変えられる程度)』を使って説明されていました。

要するにコントロール可能の有無で差別や同情はいとも変わるのだなと学びました。

日本人は個人の経験からは当てはまるときと当てはまらない項目と場面はありますが、

原則的に努力神話が強い、要するに何でも統制可能と考え自己責任をどこにでも押し付ける印象があります。

例えば著書では身体的な障害は同情の対象になる(私はこれは否定しません)

しかし不摂生や素行不良など統制可能な要因によって生じると勘違いすると、

援助意図は低くなるとのこと(詳細なデータは著書で)

 

これを聞いてある学生の頃の経験を思い出しました。

ある教師はある病について~をしていないから~になる。だから自己責任だから助ける必要はないという発言をされていました。

これを聞いた私はその教師よりも発症の内在的本質をわかっていたので、

それは統制不可能な大きな外力や遺伝などの可能性もあるからそんなことして解決につながるわけないし、実際にその行動をできなくてその疾患で苦しんでいる本人や家族は山ほどいるやろと否定した記憶を思い出しました。

 

また安易に統制可能性を説明するのは危険だなと思います。

解決の手段が今の世の中に存在しないだけで、

その時の記憶と感情が残り続けて、一生治らないという

偏見が強くなり悲観的になりQOLを下げるということにも繋がることも。

統制可能性の認知は経験や知識に基づく、判断する側の直感的で断片的な信念である。

 例えば私自身ADHDと誤解されるほどミスが多い時があるが、

チェックリスト、リマインダー、サプリによる脳の調子のハックで

ミスを減らし統制可能であるように見える。

しかしこれをいつでもできるとは限らないし、根本的な問題や詳細な解決法も生まれないし、別の人間に対して再現できるとは限らない、経済的に困難な状態でサプリを続けられることはできない(だから根本的な解決法を日々探しています)、だから安易な統制可能の判断も過度な期待やこの人は正常頑張ればなんとかなるんだと誤った判断をすることにも繋がる。

文化や環境にもよって変わるだろうが能力に絶対的なものはなく、

統制可能や不可能なものは必ず存在する。

それを理解できない限り受容する事や真の意味で同情なんてできないのではないかと今までの医療従事者の発言や行動を聞いてきた経験から今でも強く感じる。

 

ちなみに障害があるからといって生きてはいけない、生きる価値がないというのは大間違いだと僕は改めて思った。

能力史上主義だが、その環境に必要かつ自分が高めたい能力を徹底的に磨き上げ完成させたい気質だが、それがないと生きていけないという偏見は私にはない。

その根拠は私自身や周りの人間、間接的に捉えた人間は無くても多かれ少なかれ不満や問題があっても生きていっているからだ。

全ての人間が障害がなくなったら挑戦や失敗が無くなりそれこそ衰退や絶滅を意味する

挑戦や失敗の概念や定義を残し続けるのなら成長や克服、障害の除外の為の方法も必要だが、全てを一つに、人間をみな数字やラベルで決められるものという発想は、

過去歴史で否定かつ滅んできた思想や文化だから私は気を付けたい

 

障害って結局相対的なものでないのか

著書ではここは環境について書かれている

まずこの部分を読んで思ったことは、

1つの人間性や能力を求めるなら、その環境では多くの人間が障害者になるなと思った。

働かざるもの食うものべからず、カビの生えた典型的な差別主義的なことわざだと振り返ると思う。

僕たちは働けないのではなく、働く能力や評価を奪われていることを自覚する必要もある。

要するには状況を分析しないで人間だけを攻撃や排他している人間が多すぎるということだ。

できないのではなくできなくさせられている。

特に見方を変えたらできるやつと思えた、上司を変える・業務内容を変えると生産性が上がったという例を全く聞かないのならその環境は能力を個人の要因としてとらえ、

平気で差別を引き起こし、できない人間を蔑む、認知バイアスの影響を考えないで状況の仕組み化や構造の理解や分析が不十分な環境なんだと言える。

こんな人間ばかりの医療現場で障害を克服や患者が受容し前に進むことができるのだろうか?

僕はお前みたいな能力のない人間はやめろというような、

障害があるから死ぬようにと間接的に患者に伝えるような医療従事者にはなりたくないし今後も許せないと思う。

 

ちなみに著書では学校ではできなかったことが遊びや同級生の交流で読めなかった漢字が読めるというストーリーがあった。

私の聞いたことのあるリハビリ物語では、歩きたい人に対して無理やり歩かせる訓練をして訓練を拒否されるが、

友達とやりたいという趣味活動が生まれて外に出たくなり自主練習で家でやっていたら歩けるようになったということもある。

前者も後者も今までの自分の行動は何だったんだという後悔や悔しさの声が聞こえる。

結局のところ何がその人にとって刺激になるのかわからないし、人間は常に他者から刺激を受けている。

ちなみに人間というのは現状維持バイアスが存在し、

人は環境に適応していくために、環境が固定すると異なる環境で生活するのが困難となる

 と言われている。

上2つの問題はその環境ではできないままの存在であるが、

勇気をもって何か違う刺激があると今までできなかったことができるようになることがある。

僕の場合それがカイロプラクティックや論理的な分析なのだが、

逆に異なる環境で手に入れた能力を有してしまうばっかりに、今までの環境に適応できなくなるという現状が僕の経験にある。

障害者と言われる人も能力をつけるばっかりに適応できなくなることも注意する必要がある。

 

最後に

面白い話が著書に合って一つ紹介

それは弱視の人が全盲の人を助けることがあるということ。

それができる理由は全盲の人は点字が読めるからとのこと。

ベテランだから絶対的に偉い・できる人間だから若手は全員ベテランを目指すようにという社会は確実に衰退するし、現に進んだ環境や世界に取り残されて、

若者を障害者扱いしてベテランを目指さない人間を排除して才能やベテランにはできない能力で補助や助ける可能性を潰すことをする所もあった。

 

さて理学療法士として思うことは、

障害に対してもっと多面的にかつ受容的に見ないとなと思った。

実際に利用者と関わることで別に痛くても仕方がないし皆心配してくれるからいい、

トイレができなくてもここなら皆さん優しく手伝ってくれるから大丈夫。

そういうできないを受け入れる利用者さんは他の利用者とも積極的に交流したり、

できることを大事にしてこれはできますとできることは自立したままでいようとする姿勢が見られた。

デイサービスの人間としてはこの自立とできるの機能維持もやりがいの一つではないのだろうか?