理学療法士だったヒーラーの日記 私のAtoZ

理学療法士だった頃の記事を残しています

燃え尽き症候群と自分

久しぶりにブログを更新したくなって、

軽く書いてみました。

最近悪い事がとにかく続いて何もかも呪いたくなってきましたが、

内々に秘めているからストレスや憂鬱に晒されると思い、

書くことにしてみました。

 第一の愚痴としてnoteの評価が思ったよりも悪いと言うこと

評価して欲しい人にありがたい言葉を頂きましたが、

世間や多くの人々には届かなかったのが今回のnote

note.mu

今回のnoteの目的は、

あまりにも平気で人から脅したり奪ったりして相手の大切な資源や富を奪う人間が多くて、そう言う人間に本質を見抜けなくて、

ありもしない自分の都合で作り上げた罪を使って罪悪感を植え込んで罰として何かを奪ってもいいという身勝手な免罪符を何も考えずに真似をする人間でそれでいいのかという思いで書いてみました。

この書いてみた背景からすると、タイトルと内容はとても違うかもしれないけど、

脅して奪って快楽に浸っているのが本当に人間は好きなのか?

それをするのが自由なのかと言う疑問や警告もあったりします。

 

そもそも罪悪感や合意のない交渉で奪ったことを続けていると、ツケがくることがわからなくなるほど、人は未来を見えなくなったのか?と問いかけたい。

正直罪悪感を晒され続けると開き直ることもあって、だからより強い罪を植え付けようとすると今度は自分の行動が窮屈になることがある。

なぜならパワーが大きい事は適応範囲も広がるわけだから、

それは自ずと自分に繋がると考えている。

例えば犯罪レベルの罪悪感はそこまで罪を起こすことは少ないだろうし、

自分には関係ないと思って責めることもあることは納得できる。

しかし、これが自分が今までやってきているのに、お前は~をして最悪だと

言ってじゃあお前はどうなんだと開き直るという所が罪悪感の限界だろう。

人間は完璧でもなければ純粋な聖人でもない。

自分の汚い所を無視し続けて相手を叩いて責めて罪悪感で弱らせて奪おうとする魂胆がある限り、自分の行動は窮屈になるだろうし、それは真の意味での自由ではないだろう。

まあこの理論で言うと犯罪者も罪悪感を植え付けてはいけないとなるのだが、

正当化できる余地のある罪には罪悪感よりも絶対的な規則や相手に罪を起こさせたくないような合理的なシステムが俺は必要だと考えているけど、

思考して万人に当てはまる法則を見つけるよりも、

罪悪感を与えて自分が正義感に浸れる快楽の方が簡単だから

罪悪感を使わないで幸せになる方法を探すのはやはり少数だろうな。

 

奪うことの良くない所は、引き寄せの法則や因果応報の考えから、

奪ったてたら奪われるよねということ。

今は物凄い勢いや力があって誰も逆らえないからといって、

無理やり時間や資源を奪って気に入らないから消すとか村八分のように排除するとかできるかもしれないけど、

まずそういうことをやっていると潜在意識は自分も一歩間違えるとこうなると埋め込むことになる。そうすると奪われないようにとより暴力や支配による搾取は過激になり、

過激さから周りが離れ、離れるから自分に何かを言う人間はいなくなり、

また過激になり最後には奪われる仲間から外される恐怖に脅えるということもありえる。

また運命や宿命レベルで雑魚なのにそれに見せかけの張りぼての権威や権力を見せびらかせると、本当に力のある人間に奪われるということも当然あり得る。

絶対とは言い切れないけどと言いたいけど、

このような背景がある限り人は自由にはなることができない。

というより、金持ってフォロワーが沢山いてやりたいことを何でもやって、

その代償が失う恐怖と奪われる恐怖なのは、自由とは程遠いのではないかい?

と俺はそう思っている。

 

何はともあれ、このnoteは

誰かの信者や奴隷に成り下がることも、

教祖や支配者になって見せかけの自由人のふりをすることも

否定している。

短期的に遊びレベルでやるのはかまわないが、

人の本質は与えることだと考え、

かつ人間の本性は悪意でできた性悪説に同意する大衆を見ていると、

奪ったりしてないで、

自分はこんなにいいものがあるからあなたのその素敵なものと交換しないかい?

とスマートに言える人間の方が俺は好きだし、

これからもそう言う人間でありたい。

 

第二の愚痴はTwitterが面白くない

第3の愚痴はFACEBOOKのいいえや友達が増えない

2.3からSNSは生きにくい自由とはかけ離れたものだなと、

我儘でちょっと罪悪感を与えてしまう表現をしていたことにふと気づいた。

結局俺の一番誰かに与えられることは、

対面で直接的な表現でまっすぐに相手に何かを届けるということだから、

内向的で閉鎖的な人間だと

伝わらないものはより伝わらなくて、伝わるものは思った半分も伝わらない世界なのかもと思った。

 

ちなみにブログは自分の思考を誰かに話しているようで、

結構落ち着く作業で、燃え尽きてしまったこの感覚から、

またやりたいことがでてきた。

 

やりたいことはまたブログやnoteを書く事

結局誰かと交流するよりも自分と向き合うか、

自分と向き合ったものを世界に発表してその反応を見るのが、

自分の気質なんだなと思った。