理学療法士だったヒーラーの日記 私のAtoZ

理学療法士だった頃の記事を残しています

普段の臨床について思う独り言

このようなタイトルはアメブロとか、FC2の方がいいのかもしれませんが、

僕自身ははてなブログ一本でやっているので、

ここに書いてみようかと思いました。

 理学療法って科学だけでよいのか?

これの答えは僕は受け入れることはできなかったですね。

少なくとも、結果の出せない偉そうにするだけのPTに

知識があるから、経験年数があるから

というだけで媚を売ったり、気に入られようとする図に気持ち悪さを感じているからです。

 

アートという概念を取り入れるすゝめ

科学に真理や答えはつきものですが、

人間や心などには正解がありません。

逆に言うと正解がないから責められる、批判される、共有や共感ができない

などの問題が生まれる可能性もあります。

けれども同じ職業の人間から、

やり方の強制、考えの押し付け、ある特定の人物の支配

から免れることができました。

ボスざるよりも孤高の一匹狼スタイルを好む私は、

誰も到達されない、誰も共感できない、誰も侵入できない

アートの世界に引き込まれました。

 

アートだけでは自己満足にすぎない

よくお金をもらってるからきちんとしなさいと、

社会派みたいな人間の説教をよく聞きますが、

じゃあ、お金も貰わない人間はしっかりしないのかというとそうではないでしょう。

けれども、お金をもらうもらわないに限らず、

他者のためになる、他人に貢献できるのに必要な前要素は、

・信用してもらう

・共感してもらう

・受け入れてもらう

これをクリアしないといけない

そして価値の提供には

・意外性

・専門性

・希少性

が重要になってくると思います。

価値の提供は洗練されたアートやデザインにこそ生まれると思いますが、

そもそも提供をするための前段階には、

サイエンスや工学的な考えや要素も必要だと考えています。

だからアートだけだと自己満足、

誰かのために実績や経験などの信用や共有できる感覚や情報の共感

これらを使って受け入れてもらうことも重要になってくると思います。

 

これからの臨床 これからも臨床

こう書くと、これからは、

科学的な根拠や考えだけでなく、

アート、その人や状況に合わせた独自の治療やプログラムが大事なんだ

だから皆もエビデンスに縛られないで、

アートに生きよう

となればいいのですが、

そもそも、EBMが散々提唱されてきたのに、

浅はかな理解しかできない連中(10何年PTやってもEBMガイドライン

マニュアル=従うべきものと考えている人間がいる世界)

が本当に多い。若手・年長者各層にいることを考えると、

きちんとした教育を受けるものは少数なんだと実感できる。

じゃあどうするべきか考えてみると、

まずはアートに生きることも受け入れることだろう。

臨床に教科書は持ち込めても、教科書通りの反応や結果がでるとは限らない。

それを患者を責めて、教科書通りにならない患者が悪い可笑しいと思考停止するか

教科書の前提にこの概念があり、この人が逸脱している所、セオリー通りの所

それが何でどこがどうなっているかを考えるセラピストに私なりたいものだ。